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石巻市に到着

仙台から車を走らせて二時間、石巻市に到着。
昨日見た気仙沼市の景色とさほど変わらず、辺り一面焼け野原となっていた。
沿岸部に車を走らせ、真っ黒になった校舎を発見。 車を降りて校舎に近づくと全面焼けており、教室内にまだ棚や割れたガラス、中にはランドセルや上履きが転がっている。 そして四年二組の教室看板も校舎の外に...。 教室の床は砂と灰だらけ。 ここにいた子供達は無事だったのだろうか。 ここの地域にも全国からボランティアの方が集まっているが、一番復興が遅れているという事だった。 道路には会社のシンボルである大きな看板が横たわり、道路を通行止めにしてしまう程の大きさだったがボランティアの方がせめて道路だけでも通れるようにと移動してくれた後の写真だ。
更に港まで行くと、昨日の気仙沼市の方が復興のスピードが速い事に驚かされた。 石巻港には人がいなく、撤去作業の人も少なく街が街でなくなってしまっていた。
気仙沼市より港の海臭さと生臭さは強く、未だ工場の二階部分にはガレキや衣類が残されたまま。 そしてそういった工場が沿岸部ずーっと続いているのである。

焼けた校舎 散乱した校舎の中 道路に倒れた看板

女川町へ

港を後にして北にのぼり女川町へ。
こちらの女川町は押し寄せた波での被害というより引きの波に全て持っていかれ、住宅の基盤しか残っていないという状況でした。 石巻市と同じで復興は進んでいるとは言えませんが、震災から三日目には自衛隊やボランティアが手伝いに来てくれたとの事。 しかし引き波に持って行かれた事でボランティアの方ができる作業ではないという。 機械を導入しての撤去作業が必要になり、国がなかなか動かないので放置状態の女川町であった。
女川町沿岸で商売をしていた相原さんは、「若者は東京などの都心へ仕事を探しに行けるけど、私達の世代は今から仕事を探すのは限界があるし、この先が不安だ。」と涙を溢しながら話して下さいました。 私が相原さんとお会いした場所は山の峠を下った道端で、商売をされており、たまたま車で通りかかったのが出会いだった。 ここの通りはほとんど車も通らなく、通ってもガレキ処理のトラックのみ。 それでもじっとしていても何も始まらないから、あるもので商売をしているとのこと。
家も流され、旦那さんと二人で営んでおり、プレハブでの生活をしている相原さんは久々に人とおしゃべりをしたと話してくれた。 震災後、ショックのあまり人と話すことさえせず、毎日恐怖と悲しみの日々だったと。
相原さんの「じっとしていても何も始まらない」、この一言に強い気持ちを感じた。 また希望の光が差し込んだ女川町でした。

がれき 相原さんと

午後は避難所を回らせていただき、その中で生活している方とお話しが出来た。 釜石から避難されている渡辺さん、体育館の本部がある所で国会での答弁をしているテレビ前に座られていました。
「ボランティアの方?一緒にテレビ見ていき」とのお誘いにちゃかり横に座って国会での答弁を見ていました。 そして渡辺さんが今の心境を話してくれました。 こんなに政府は答弁しているのに何も私達は変わらない。 毎日同じことの繰り返しを協議していて何も前に進まない。 「僕達はこの先、明日の生き方すら分からない状況なんだ。」と熱弁に語ってくれた。 そして、今回私達が訪問するきっかけになった「原発よりも被災地を助けることが優先」ということ。 今、テレビや政府は原発問題の話が持ち上がっているが、忘れていけないのは避難されている人達の今後の行方なのだ。
石巻市立大街道中学校に避難して早三ヶ月が過ぎようとしていた。 彼は釜石で漁師をされており私のポロシャツを見て声をかけたのだという。 「東京の魚市場は今どうかね?」「東京の人はどんな生活をしているの?」と悔し涙を我慢しながら私に質問を投げかけてきた。 今の東京の事、私達の会社の事、私達が行っている事、全て素直に話しました。 私達の会社が海外にもあると伝えると渡辺さんは、「僕を雇ってくれないかな?でも日本語しか出来ないや。」と笑いながら言いました。 隣にいた同じく漁師さんの方は終始一言もしゃべらず、ただ涙を流していました。
「今困っている事は何ですか?」、私の問いに彼らは「下着類が足りない。この体育館で蒸し暑い中、下着を一週間着続けているんだ。女性なんかもっと可哀想だよ」と。 物資は行き届いているはずなのに、彼らが必要としているものは全然足りていないのが現状で、これが被災地からの声です。
渡辺さんから一言、「いつか東京に行っておたくの寿司を食べにいくからね。それまでにお嬢ちゃんもしっかり頑張るんだよ」と。 東北にきて我慢していたものがはじけ初めて涙を流してしまいました。
私からも「もっといい会社にして、釜石が復興するように私達で釜石を救います。釜石で揚がった魚を売らせて下さい」と誓って避難所を出た。
帰りの途中、買い物袋を持ったおば様達に遭遇。 何故か体が反射してしまった。 車を降りて彼女たちに声をかけた。 「どちらまで行かれますか?」、返答は「ちょっとそこの仮設住宅に住んでいるからそこまで」と。 しかし先を見渡しても仮設住宅はない。 さらに話を聞くと歩いて一時間先の場所だという。
もちろん、大量の荷物を抱えて杖をつきながら自宅へ向かっているとのことだったので、車に荷物をのせ住宅まで送らせていただいた。 まだ電車やバスも復旧しなく、だけど仮設住宅には食糧の配布がなされない為、自分達で買い物をしなければ生活できないのだ。 もちろん、車も流され交通手段は徒歩。 だから長い道のりを近所同士一緒に会話をしながら歩いていくのだという。
仮設住宅まで付き添う。 住宅回りには綺麗な花が咲いていた。 こちらはボランティアの方が置いていってくれた花だそうです。

避難所 避難所

がんばろう日本 復興するぞ 東京へ

東京へ

この地を訪れたことで今後の私達がやるべきこと、やらなければいけないこと、そして今行なっている復興支援をもっと濃いものにして、「応援していかなければいけない」と痛感しました。 帰りの車内では今回感じたこと、今の現状をどう伝えていくか考え一路東京へ向かった。